ガリンペイロの半生

今やっていることと実績

はじめまして。ガリンペイロだ。

本業はアドアフィ会社の代表をしている。
月利は毎月1000万円~1200万円くらいで安定している。

学生起業からスタートして6年目になるが、それなりに成功した方だと思う。

自社でアドアフィを回しつつ
フランチャイズという形で計6社のコンサルティングも行っており
そのロイヤリティ収入もある。

あとは不動産と株もやっているので投資家でもある。

アドアフィ以外にも情報発信(コンテンツ販売、スクール運営)やEC物販をやっていた時期もあったので、
いわゆるネットビジネスはそこそこ経験してきた。

で、一番最初に始めたのがSNSアフィリエイトで
そのおかげで今があると言っても過言ではないので
このメディアでは自分がやっているアフィリエイトの発信をしていく。

生い立ち(幼少期〜高校卒業まで)

ガリンペイロのひととなりを知っていただくために
高校卒業するまでの話をしていく。

俺はぶっちゃけ
・家が超貧乏
・毒親
みたいなことはなく、わりと普通の家庭で育った。

ネット上にはバックグラウンドが壮絶な方がたくさんいて
自分は普通だから成功できないのかな?と感じている人もたくさんいるかもしれないが
そういう人には希望になる内容だと思う。

身バレになるので詳細は伏せるが
生まれたのは西日本の田舎だった。

これがかなりの田舎。
小学校の同級生は10人しかいなかった。

幼稚園から中学生までの11年間ずっとそのメンバーで過ごす。

で、人数が少ないと
役割が固定化されるという現象が発生する。

例えば、
・足が速い子
・面白い子
・勉強ができる子
みたいな感じ。

俺の場合は3番目だった。
早生まれでカラダが小さかったこともあって
小4くらいまで運動は苦手だった。

また家の方針で
テレビゲームを買ってもらえなかったので
同級生との共通の話題がなかった。

そうなると、なかなか親しい友達ができない。
人数が少ないので仲間はずれにされるとかはないのだが

同級生の男子3人で下校する時、
最初は3人横並びで歩いているが
両脇の2人はゲームの話で盛り上がって
いつの間にか僕だけ後ろに下がって2人は歩いていく…
みたいなことは小1から中3まで続いた。

夕焼けが反射する2個のランドセルを見ながら
少しだけ寂しい気持ちを抱えていた。

家族の話もしておく。

父親はブルーカラーの仕事をしていた。
元々は農家をしていたが
俺が小2の時にやめて以来、職を転々としていた。

木材加工、養豚場、市場、新聞配達など
いろいろやっていたと記憶している。

一度、横浜に出稼ぎに行くんだ!と言って
2年ほど神奈川に住んでいたこともあった。

僕が育った街は土地柄の影響で
農家が7〜8割を占める地域だった。
友達のお父さんはみんな同じ仕事をしている。

「ガリンペイロくんのお父さんは何の仕事をしているの?」
友達や先生にこう聞かれるたびに
俺は戸惑った。

父さんは転職ばかりでカッコ悪い。
小学校高学年〜16歳くらいまで
俺はこのように感じていた。

今は親父に対して
「キツい仕事やって育ててくれてありがとう。」
と誇りに思っているが
第2次成長期のガキにそんな気持ちなんて分かりっこないわけだ。

自分の父親に対して
劣等感を感じていた少年期だった。

ちなみに父親とは
遊んだ記憶がほとんどない。
夜遅くまで残業して帰ってきて、
朝6時に家を出ていく背中を覚えているくらい。

なので、ガリンペイロ家の子育ては
ほぼ全て母親によって行われた。

父親が無駄遣いばかりするだらしない性格だったので
お金の管理も全て母親がしていた。

母親はというと
九州大学薬学部に現役合格したものの家が貧乏だったので
大学に進学することができず
専門学校卒業後、医療系の仕事をしていた。
頭はかなり良い人だった。

なので、自分が大学に行けなかった分
僕と姉が学のある子供になれるように
教育面はしっかりしていた。

ただ、教育ママという感じではなく
学校の授業ちゃんと理解できてるかな?と
時々チェックが入るくらい。

おかげさまで
小中高と成績は上の方だった。

自己紹介の冒頭で話した
勉強のできる子につながってくる。

なので、小中学校と
何かにつけてリーダー的な役割を任せられることが多く
僕はそれに辟易としていた。

勉強できることと
周りを引っ張る能力は別物なんだよな。
と感じていた。

高校はそれなりの進学校だったので
勉強できる+リーダー気質のある人もけっこういて
リーダーを任せられることからは逃れられた。

高校時代はテニス部に入って
ほぼ毎日練習していた。

7限まで授業受けて
練習2〜3時間して
家帰ってくると20時前だった。

そこから飯やら風呂やらを済ませて
勉強机に座るのは21時半くらい。

朝は毎日6時に起きていたので当然眠い。
15分くらいで机に突っ伏して寝てしまう…

なのでテニス部を引退するまで
家で勉強した記憶はない。

代わりに毎日7時20分に学校に行って
朝の1時間で課題やら復習やらを済ませていた。

今思えば、半ば写経的な課題に何の意味もないが
当時は勉強して良い大学に行くことが成功だと信じ込んでいたので
目の前のことを一生懸命やっていた。

高1の4月に入部してから
3年生で引退するまで
ずっとこの生活を続けた。

高校時代の転機

部活と勉強しかしていなかった
俺の高校生活に転機が訪れる。

高2の3月だった。

同じクラスの好きだった女の子が
県外に転校すると知らされた。
(ここではAちゃんとする)

金曜のホームルームが終わった後
担任がAちゃんを黒板の前に呼んで
Aちゃんの口から知らされた。泣きじゃくりながら。

Aちゃんのことは
1年生の夏から
好きだった。

1年の時は隣のクラスだったので
時々授業で一緒になるのだが
可愛いなぁと目で追いかけてしまう。

ですが、俺はコミュニケーションが苦手なタイプだったので
告白どころか話しかけることすらできない。

このまま何も伝えられずに
終わってしまうのかな。

その日の部活は
心ここにあらずだった。

ちなみに隣の県まで電車で往復すると
1万4000円くらいかかる。
(田舎は鉄道が高い)

当時の僕の小遣いが月3000円だったので
会いに行くのはほぼ不可能。

知らない土地に行ってしまって今生の別れになる。
そんな気持ちが心を支配した。

そして帰宅して
俺はとある決心をした。

「結果がどうであろうと20年後には全て笑い話になる。
だから俺の思いを伝えよう!」と。

急にメンタル強キャラになった。

前にYouTubeで見た偉人が
「20年後には誰も気にしない」と
言っていたのを覚えていて
それに後押しされた感じだ。

早速Aちゃんと同じ部活の子にLINEを聞いて
メッセージを打ち込む。

今となってはどんな文面を送ったか覚えていないが、
「Aちゃんのこと前から好きだった!転校するって聞いてさみしい。」

こんな内容を送ったと思う。

告白して付き合おうとは1ミリも考えなかった。

ただ

思いを伝えないまま
自分が何もできないまま
終わってしまうのは
後から絶対後悔する。

だから変わるならこの瞬間しかない!
その一心だった。

「ガリンペイロくん、ありがとう!」

スマホの通知をチラチラ確認しながら
学校の課題をやっていると
20分くらい経って
AちゃんからLINEが返ってきた。

返事返ってこないと思っていたので
「うおおおお!」
という声を殺しながら自分の部屋で拳を握った。

2ラリー目
何を送ろうかと考える。

「そうだ!
せっかくだからプレゼントをあげよう」

自分のこと覚えておいて欲しいな。
と思ったのでこの考えに至った。

そしてメッセージを送る。

「渡したいものあるから
月曜の朝会えたりする?」

しばらくして返事が返ってきた。

「ありがとう!いけるよ!」

拳を握って2回目のガッツポーズ。

ただ、その時の気持ちは
嬉しさ10%、緊張90%だった。

好きな子と朝早く2人きりで会う。

今まで女の子と付き合った経験がない僕にとって
今回のイベントは胸が潰れるほどドキドキものだった。

また、何をプレゼントするか?
という問題も発生した。

今は金曜の22時くらい。
そして日曜の夜にはプレゼントの用意が必要。

ただ、買いに行く時間が俺にはなかった。
土日は1日練習試合が組まれていて街に出る時間がない。

ちなみに僕の実家から
最寄りのコンビニまでは10km以上の道のりがある。
車で移動するのが基本だった。

時間もないし
街に出ることもできない

僕の住んでいる街は田舎なので
Amazonで注文しても日曜の夕方に届かない可能性も高い。
(当時はAmazonという発想もなかった)

17歳、頭を抱えた。
しかし、その金曜はいつもと違うことをしすぎて疲れていたのか
いつの間にか眠りに落ちていた

そして白色の朝を迎えた。

俺は何かに迷ったり落ち込んだりした時は
歩いて4分くらいの海水浴場に行っていた。

小学生の頃は
夏休みに泳いだり
水切りをして遊んだ
思い出の場所だ。

土曜日の朝、練習試合に出発する前に
堤防に腰掛けて
考えを巡らせる。

水平線のはるか先にある半島を眺めながら
「そういえば、Aちゃんってあの辺に住んでるんだよなぁ」
なんてことを考えた。

Aちゃんが住んでいる街と
俺の住んでいた家は
距離にして20kmくらい離れていたのだが

海を隔てると
意外と近いことに気づいた。

そういえば、夏になると
Aちゃんの街の花火大会の閃光も見られたな…

海か…

そうだ。
シーグラスをあげよう。

僕は堤防から飛び降り
無心になってシーグラスを拾い始めた。

それなりに綺麗なものを
いくつか集めてポケットに詰め込んだ。

帰宅して
水洗いして乾かす。

これで贈り物
完了。

もっとマシなものあげろよ。恥ずかしい。
と今は思うが

当時の僕ができることは、
それくらいしかなかった。

そうして
月曜の朝を迎えた。

いつも母親に送り迎えをしてもらっていたが
その日は10分早く出ることに。

待ち合わせは7時半。

場所は3棟ある校舎で
使われていない古い棟を選んだ。
3階の踊り場でAちゃんを待った。

ドキドキしながら待っていると
階段を駆け上がってくる音が聞こえる。

足音が大きくなるにつれて
僕の心臓は大きく脈打つ。

そして、踊り場まで
Aちゃんがやってきた。

何を話したかは
全く覚えていない。

シーグラスを渡して
「ありがとう」的な言葉をかけられて
最後にスマホで一緒に写真を撮って別れた。

Aちゃんが去った後
魂が抜けた状態で
20分ほど階段に腰掛けていた。

そろそろ他の生徒も登校してくる。

皆の登校タイミングに合わせて
何食わぬ顔で教室に入る。

恥ずかしかったので
Aちゃんの机がある方は見ずに
適当に本を読んでいるふりをした。

その日の夜。

1枚の写真とともに
Aちゃんからメッセージがきた。

今日のプレゼントに対するお礼と

どうやら元々
天然石(鉱石?)のコレクションをしていたらしく
僕が渡したシーグラスもその一員に入っていた。

何はともあれ
うまくいったようだ。

誰に対しても優しい女の子だったので
僕に配慮してくれていたんだと思う。

その3日後に
終業式を迎えた。

俺たちは来年から
高校3年生になる。

クラスの女子たちが
「Aちゃんの送別会をやろう!」と言い出して

夜の18時半から
高校近くの食べ放題2500円の焼肉屋に
同級生で集まった。

2年生お疲れ様

Aちゃんさようなら
の会だ。

もうAちゃんと喋る必要はなかったので
男友達としょうもない話をしながら
焼肉をお腹いっぱい食べた。

会が終わりに近づいた頃
Aちゃんが
自分の名札をクラスのみんなにあげる。と言い出した。

苗字が書かれた
プラスチックのプレート。

俺たちは
それを学ランの胸ポケットにつけていた。

そして
受取人をジャンケンで決めることになった。

俺はジャンケンには良い思い出がない。

子ども社会で争いが発生したとき
最後はジャンケンで決定というパターンがほとんど。

小学5年生の時
音楽発表会で演奏する楽器を
ジャンケンで決める時があった。

俺はトランペットをしたかったが
トランペットが人気すぎて
10人くらいでジャンケンして、1人脱落という選考形式になった。

そして、その1人が俺だった。

負けた俺は
代わりにユーフォニウムをすることになった。

なので、俺は
ユーフォニウムできるという謎の特技がある。

そんなこんなで
この局面でジャンケンかよ。だった。

名札欲しい人だけ参加することになって
25人くらいで1人を決めるジャンケンがスタートした。

25人でやっても
あいこになるだけなので
5~6人のグループで予選をやって
最後に決勝だった。

結果からお伝えする。

僕は倍率25倍の混戦をくぐり抜けて
名札の受取人になった。

その後、
Aちゃんから名札をもらった。

周りの男子は
「ガリンペイロ、良いじゃ〜ん」みたいな感じで
囃し立ててきたが

俺はまんざらでもない表情を装って
「なんか勝っちまったわ」
なんて言ってた記憶がある。

いよいよ別れの時。

人が捌けるのを見計らって
もう何枚かAちゃんと写真を撮ってもらった。

LINEを紹介してくれた友達に
撮ってもらった。

外は暗く
鮮明な写真ではないが
そんなことはどうでも良い。

こうして
僕は3年生になった。

後日談だが、
実は名札は2枚あった。

普段使う用とは別に
スペアとして学校側がもう1個作っている。

俺は時々
もう1枚の名札の所在を思う。

ガリンペイロ変わる

新年度になっても
Aちゃんのことは毎日のように思い出していた。

そんなに簡単に
忘れることができなかった。

ちなみに
もらった名札は
筆箱に入れていた。

この1件でわかったことがある。

それは
「勇気を出して行動すれば、人は変われる」
ということ。

16歳までの自分は
親や先生に言われたことに従って
ずっと良い子ちゃんをやってきた。

そうしないと失敗すると思ったからだ。

しかし、自分の決断と行動次第で
人生は如何様にでもなる。
このことが心に刻み込まれた。

暴挙に出るなら今しかなかった。

3年生になってからは
クラスの室長に立候補したりと
今までとは違うこともやった。

俺以外に候補者がいなかったので
室長をやることになったのだが

先生たちも
「アイツ、変わったくない?」
となっていたようだ。

余談だが、当時医学部を目指していたので
内申点上げるために立候補した。
3年の1学期までの内申点が受験で評価されるので
このタイミングしかなかった感じ。

地元の国立大学はウチの高校から毎年1人は推薦を取っていたので
そのまま医学部受験すれば、受かっていたかもしれない。

このように
ちょっとだけアクティブな性格になった。

そうして部活も引退し
いよいよ受験シーズンに突入した。

ただ、
本当の試練がここから到来するのだった。

大学受験失敗

あっという間に年が明け
大学受験のシーズンになった。

俺の家は貧乏だったので
私大に行くことはできなかった。

なので、
前期と後期で国立大学を2つ受験した。

前期は京都大学。
後期は千葉大学。

結果からお伝えすると
京大は不合格だった。

東大・京大は合格発表が3/10と遅く
千葉大の後期試験が3/12だったので

次の日には千葉に到着している必要がある。

落ち込む間もなく
千葉行きの準備を進めた。

今まで試験系に落ちたことは一度もなかったので
京大も受かっているだろうと思っていたが
結果はダメ。

正直、千葉大行くつもりなんて1ミリもなかったので
過去問すら見ていなかった。

千葉大の受験科目は
化学だけだった。

ただ僕は化学には自信があったので
前日は千葉観光して適当に過ごしていた
(センター試験の化学は100点中96点)

そして試験本番。

当日は簡単な計算問題をアップ程度に解いて
泊めてもらっていた伯母さんの家から
試験会場に向かった。

前期試験で進路が決まった人は
後期試験には来ないので
教室はけっこうガラガラだった。

正直言うと
浪人するつもりだったので
吹っ切れた気持ちで問題を解いていた。

8〜9割は解けた感覚があった。

ただ、ライバルたちも
難関大に落ちて受けにきている奴ら。

落ちたとも
受かったとも
分からない感触で
帰路についた。

合格発表は18日だった。

浪人する前提でいたので、
実家に帰ってから
予備校の特待生試験を2回ほど受けに行った。

その試験の点数によって
寮費が無料になったり
授業料が無料になったり
予備校代を浮かせることができる。

ウチみたいな貧乏な家庭には
助かる制度。

確か2回目の試験が終わった後だった。

母親とレストランで飯を食べている時に
千葉大の合格発表があった。

結果から言うと
合格していた。

実は予備校の試験を2回受けているうちに
感じていたことがあった。

それは東京に出たいということ。

俺は高2の夏に
東大のオープンキャンパスに行った。

オープンキャンパスに行けば
合法的に部活を休める。
ということだったので

東大行くつもりなんてなかったが
とりあえず、東京に行くことにした。

母親と2人で行った。
6年ぶりの東京だった。

ちなみに僕の家庭は毎年夏休みになると
沖縄や東京に遊びに行っていた。

母親が自然好きだったので沖縄
千葉に伯母さんが住んでいたから東京
という感じ。

旅程はけっこう長くて
8泊や9泊で行っていた。

ディズニーランドは乳児の頃から
毎年行っていたと思う。

ただ、1個上の姉が中学生になると
部活があるとのことで
旅行に行くこともなくなった。

なので、
小6から高2までずっと
地元から出ることなく過ごしていた。

そんな経緯があったので
6年ぶり訪れた東京は
俺にとってめちゃくちゃ輝いていた。

2016年のことだ。
当時は「君の名は。」という映画が大ヒットしていた。

田舎暮らしのJKと
東京暮らしの男子高校生が入れ替わり
彗星衝突を回避していく物語だ。

君の名は。では
東京がとても綺麗に描かれている。

映画の予告を見ながら
東京に憧れを持っていた

東大のオープンキャンパスはもちろん
浅草、スカイツリー、東京タワーと
東京の名所を観光した。

6年ぶりの東京にはしゃいでいた。
2泊の旅行なのに
写真を1000枚以上撮った記憶がある。

最終日の夕方
「TOKYO 2020」と書かれた
ボーディングブリッジを眺めながら
飛行機は離陸した。

20歳の時
東京にいたら最高だな。
と思った。

千葉大の合格発表があったときに
ふとそんなことを思い出した。

千葉大を受験すると決めたのは
たまたまだった。

担任に「後期は千葉大でいいんじゃね?」
と言われたので何も考えずに出願したのだ。

これも何かの縁かなと感じた。

1年間浪人して勉強するよりも
早く東京に出たい。

その思いが強くなって
食事の終わりに母親に

「千葉大いくことにするわ!」
と伝えた。

あまりの決断の早さに
「あ、そうなんだ!」と母は言った。

千葉で始まった大学生活

3月18日に千葉大に行くと決めた。

3月28日くらいから
新入生向けのイベントがあるので
早く準備を進めないといけない。

まずは大学近くの不動産屋に行って
住むアパートを探した。

幸いだったのは
千葉に伯母さんが住んでいて
家が決まるまでの間住んでいいよってなったこと。

結局、4月5日くらいまで
伯母さんの家でお世話になっていた。

借りるアパートも決まって
いよいよ最初の登校日。

教科書をリュックに詰め込んで
自転車で大学に向かう。

オリエンテーション的な授業を終えて
家に帰ってくると母は実家に帰っていた。

真っ白な部屋
ピンピンに伸ばされて干された洗濯物
作り置きしてくれたご飯

突然、ずぶ濡れになった感覚に襲われた。
温かいシャワーを浴びていると涙が出た

これからは1人でやっていかないといけない。

憧れの東京(千葉だけど)と言えど
受験に失敗してここにいる。

当時は学歴コンプレックスが
とんでもなかった。

「俺は来たくて千葉大きたわけじゃねーし」
「オメェらとは違うんだよ」
このような感情を抱えていた。

とても嫌なやつである。

今思えば
落ちたんだからその程度なんだよ
お前が悪い
となるのだが、若さゆえ冷静にモノを考えられなかった。

そんな気持ちでの入学だったので
「この4年間で何かを成さないと終わる」と直感した。

京大に受かったやつと俺では
受験で既に差がついている。
この差を埋めるには別のベクトルで勝負するしかないと思った。

堕落した大学生活

何かしないといけない。
と思っても
何をしたらいいかわからない。

現実はこんなモノだった。

なので、目の前の勉強に集中することにした。

俺の所属していた学科は
単位を取れば取るほど
4年次の研究室(ゼミ)専攻に有利になるので
週25コマ中、23コマを入れていた。
(普通の学部生は13コマくらい)

とりあえず詰め込んだ感じである。

成績も良かった。
1年前期のGPAは3.4だった。

大学の授業といっても
前期は高校のおさらいなので
ほとんど勉強しなくても点が取れたのだ。

あとは、テストで点を取るのは
情報ゲーだということに気づいた。

先輩からテストの過去問を入手して
事前に答えを暗記しておく。
→これだけで秀がもらえる。

落単(単位を取るのがラクな講義)
を選択するのも効果的だった。

1年生の最初のテストで
このことを知り愕然とした。

と同時にほくそ笑んだ。

情報さえ集めておけば
授業聞かなくても卒業できるな。と。

人生の夏休みだと思って
大いにはっちゃけることにした。

サークルは
飲みサーとして有名なテニスサークルに入った。

毎月何かしらのイベントがあったので
遊びまくっていた。

・テニスする
・遊ぶ(飲む)
・SNSする
・バイトする
・シコる
くらいしかしていなかった。

このように
大学1年の時は
ゴミみたいな生活を送っていた。

大学生活で何かを成す
と息巻いて入学したが
現実はこんなモノであった。

蠢動

しかし、1年間過ごす中で
思うところはあった。

具体的には

・金がもっと欲しい
・女子にもっとモテたい
・有名になりたい
・権力が欲しい

この4つだ。

1個目から話したい。

とにかく金がなかった。

周りを見渡すと
・親から仕送りを受けている人
・実家暮らしであまりお金がかからない人
・文系で暇なのでバイト戦士になって金がたくさんある人
こういうやつが多かった。

俺はというと
・実家は貧乏
・下宿で家賃もかかる
・授業も多かったのでバイトあまりできない
という三重苦を抱えていた。

もっと遊びたいのに金がない
カッコイイ服買いたいのに金がない

ずっと不満を抱えていた。

奨学金をもらっていたので
めちゃくちゃ困窮することはなかったが
最低限の生活をして、それで終わり。という感じだった。

2〜4個目はセットで語るべきだろう。

サークルに入って発覚したのは
1年女子は先輩から丁寧に扱われるのに
1年男子は雑に扱われるということ。

マ◯コついてるだけで
ここまで対応変わるのかと驚いた。

同い年の女子も当然
先輩かっこいい!
となるわけである。

いやいやいやいや
1年早く産まれただけだろ。
と心の中では思っていたが

先輩たちは1年女子と遊んだり
付き合ったりしているわけだから
劣等感でいっぱいである。

ヒエラルキーも先輩の方が上だから
悔しい…となる。

ここで俺が
先輩に気に入られて〜
みたいなことができるタイプならば
楽しくやれていただろうが

プライドもあるので
それはやりたくなかった。

俺は1人で突き抜けてやると思った。

だからまず
有名になろうと思った。

有名になれば
権力も手にすることができる。

こうして
・金持ちになる
・女にモテる
・有名になる
・権力を手にする
という4つの目標が定まった。

芸能活動始める

まず優先順位をつけた。

金と知名度を手に入れれば
権力は自ずと手に入る。

そして
金は後からでも手に入ると考えた。

なので、有名になると
女にモテるを最優先とした。

当時は有名になる=芸能人になる
と思い込んでいたので
芸能活動を始めた。

芸能やるなら若い方が絶対に良いので
迷いはなかった。

大学2年の4月のことだ。

Aちゃん転校の時と同じで
「20年後には笑い話になる」
マインドでスタートした。

実際、俺は小顔で身長も180cm以上あったし
見た目も良い方だと自覚していたから
少々自信もあった。(恥ずかしい)

大学の男の先輩で
有名人(インスタグラマー)がいたので
身近に目標とする人がいたのも大きかっただろう。

今となっては芸能活動と言うのも恥ずかしいが
オーディションやコンテストを受けていった

有名なところで言うと
メンズノンノのモデルオーディションを受けたりもした。
(これは落ちた)

自分でもフォロワーを増やす努力をした。

Instagramは半年間毎日投稿したし
ライブアプリで配信してファンを増やしていった。

7ヶ月くらいすると
総フォロワーは1万人を超えた。

1年後には雑誌に出たり
地上波のドラマに出たりもした。

あとは特技があると
多少は選考残りやすいので
競技クイズと縄跳びの練習をした。

当時は東大王というクイズ番組が流行っていて
クイズブームだった。

クイズ自体は大学1年の夏からやり込んでいたが
クイズ番組に応募して実際に出演したりもした。

運動系の特技もあった方が良いかなと思い
選んだのが縄跳びだった。

なので、俺は
四重跳びできるという特技がある。

とにかく
何者かになろうと必死だった。

自分の知性と芸で生き抜くことができないから
俺は大学生をやっているのだ…

それが嫌で嫌で
がむしゃらにやっていたと思う。

大学2年の前半は
知名度を上げることに全振りした。

そして
芸能始めてから7ヶ月くらい経ったタイミングで
大きなオーディションが終了した。

季節は冬になっていた。

このタイミングで少し時間ができたので
自分の将来設計を再考することにした。

芸能を実際にやってみて
これで飯食っていくのはきついなと
感じていたのもこの頃である。

今は19歳だから許されているだけだ。

現場やオーディションで顔を合わせた
20代中盤や後半になっても
うだつが上がらない役者を見て
こうなるのは絶対イヤだなと毎回思っていた

ある夜、
都内でオーディションを終えて
総武線で千葉へと帰っている車内

有名女優BとイケメンIT社長の
交際報道記事がTwitterで流れてきた

俺はその社長のことを
素直に羨ましいぃぃぃと思った。

それと同時に
金を稼ぎたい。という欲望が呼び覚まされた。

そうだ。お金だ。
金があれば美人と付き合うこともできるんだ!

有名になる以外にも
女性からモテる手段を見つけて
車内でテンションが上がった。

馬車馬のように働く

有名になる(芸能)→金を稼ぐに
目標がスイッチした。

もうお分かりだと思うが
目標が決まれば
俺は赤外線誘導付きミサイルのように飛んでいく。

しかし一介の大学生に
金の稼ぎ方なんてわからなかった。

なので、とりあえずバイトすることにした。

今までは芸能に時間を割きたかった分
バイトは極力やらないようにしていた。

早朝のコンビニで2〜3時間働いたり
時給の高い塾講師を週に4時間やったり
といった感じだ。

だが、今回は
追い込んでガチで稼ぎにいく。

2019年の12月初頭に
そう決意した。

取り組んだバイトは以下の通りだ↓

・セブンイレブン(朝6時〜9時)
・塾A or B(夕方)
・塾C (夜)
・山崎パン(22時〜5時)

当時のスケジュールを話そう。

まず俺の1日は朝から始まるのではなく
前日夜からスタートしていた。

22時から
山崎パンの工場で仕事が始まる。

ケーキの上にイチゴを乗せたり
チョコの粉をケーキにふりかけたり
肉まんの紙を機械に置いたり

5時まで
こういった単純作業を続ける。

そして自転車で
セブンイレブンに移動して仮眠

6時からレジ打ちや品出しの作業を始める。

8時か9時まで働いて
廃棄食品をもらって家に帰る。

もらったおにぎりやサンドイッチを食べて
シャワーを浴びて通学。

セブンイレブンの時点で眠いので
大学ではずっと寝ることになる。

17時〜19時は
塾Aと塾Bでバイト。

19時半〜21時半は
塾Cでバイト。

そして22時から
また山崎パン。

このサイクルを
ぐるぐると3週間続けた。

12月7日くらいから12月29日までやった。

結果として40万円くらい稼げた。

大学生にとっては大金である。

なぜこんなに追い込んだのか?というと
来年の6月に200万円欲しかったからだ。

毎月40万円稼げば
5月には200万円に達するという計算だ。

だが、これをあと5回繰り返すのは
肉体的にキツかった。

そもそも、この3週間
まともに布団で寝ていない。

夜勤終わりのセブンイレブンで
何度もぶっ倒れそうになっていた。

自炊する暇があれば寝たかったので
コンビニの廃棄食品や
山崎パンから無料で持って帰れる菓子パンばかり食べていた。

飯代の節約になると思ってやっていたが
そのせいで顔にはニキビが増えていた。

そして大学のテストが始まれば
このペースで働くのはほぼ不可能。

限界まで追い込んだ結果
別のやり方を考えざるを得なくなった。

ビジネスで稼ぐという選択肢

時給労働では月40万円が限界だ。

当時、月100万円稼ぎたい!
みたいな欲望はなかったが
少ない時間で大金を稼げる方法を模索した

スマホで
「副業 稼ぐ」
「稼げるビジネス」
などと検索していく。

物販、投資、アフィリエイトなど
いろいろ出てきたが
一度アフィリエイトで失敗したことを思い出す

ちょうど半年くらい前
ブログアフィリエイトは月200万円も目指せる。
という記事を見つけて

サーバーとドメインを契約してスタートしたが
4000円しか稼げずに
1日でやめてしまったことがあった
(ちなみにその4000円はセルフバック)

だからブログを作っても
アクセスを集めるのは難しいことを知っていた

しかし、アフィリエイトには
・初期費用があまりかからない
・利益率が高い
・ネットで完結する
という大きなメリットがある。

当時は資金がなかったので
物販や投資は現実的ではない。

やるならアフィリエイトだな!
と決めた。

ただ、ブログアフィリエイトで大金は稼げないから
別のやり方で挑まなくてはならない。

ということで、調べているうちに
SNSアフィリエイトという手法を見つけた
(200サイトくらい閲覧したと思う)

どうやらTwitterを使って集客するらしい

俺が見つけた発信者は
毎月30万円くらいアフィリエイトで稼いでいた。

しかも初月5万円→2ヶ月目15万円→3ヶ月目30万円のような
収益推移だったので即効性もある。

これは間違いなさそうだ。
と思ってその人の公式LINEに登録した。

無料相談もしているとのことで
通話をすることになった。

その人をTさんとする。

通話ではお互いの自己紹介と
SNSアフィリエイトについて軽く教えてくれた。

もっと詳しいことを知りたければ
新宿の事務所で教えますよ!
とのこと。

俺はノウハウを知りたすぎたので
4日後に新宿まで行くことになった。

決断

Tさんの事務所は
新宿駅から徒歩10分のところにあった。

オフィスの外で待ち合わせして
会議室に入る。

Tさんの先生も来ているらしく
3人で話をすることになった。

メインで喋るのは先生の方。

こうやってTwitterアカウントを伸ばしていくんだよ。
と教えてくれた。

しかし、肝心の部分は教えてくれなかった。

俺はアカウントを伸ばした後の
成約の導線を知りたかったのだが
それを知るにはコンサル料がかかるとのこと。

ん?コンサル料?

その時の俺は
無料で教えてくれるとばかり思っていた。

コンサルティングの意味すら
よくわからない始末である。

頭をバットで殴られたような
衝撃が走る。

恐る恐る値段を聞くと
30万円、60万円、80万円とのこと。

絶望するほど高い。

今思えばそんなもんでしょ。って値段だが
大学生からすると大金である。

先月、バイトして稼いだ金があったので
30万円のプランはいけなくもない。

ただ、30万のプランは
コンテンツのみだったので
最初から選択肢になかった

コンサルもしてもらうなら
60万円だが

そもそも60万円なんて持っていない。
クレジットカードもない。

これは無理そうだなと思い
「持ち帰って考えます」と言葉を濁して事務所を後にした。

ラッシュの総武線に揺られて
家に帰った時はクタクタだった。
とても緊張していたのだ。

せっかく新宿まで行ったのに
何も前に進まずショックだった。
悔しい。しんどい。

「あーあ、やっぱり俺には無理なのかな」
「ビジネスで稼ぐのは才能なのかな」
とネガティブな感情が押し寄せてくる。

感情のやり場を失って
SNSアフィリエイトについてダラダラ検索していると

Sさんという21歳の発信者を見つけた。
アフィリエイトで初月から20万円も稼いでいた。

どうやらTさんと同じグループに所属しているらしい。

21歳って俺の1個上かぁ。
すごいなぁ。
と思いながら公式LINEを追加した。

またしても
無料相談の案内がきた。

ん?待てよ?

今の俺には35万円くらいのキャッシュがある。
最初に30万円のプランでスタートしちゃって
残りの30万円はバイトして返済すればよくね?
とひらめいた。

いけるかもしれない…

教わるなら年近い人から教わりたかったし
Tさんの先生はゴリゴリ営業してきて、俺とは波長が合わなそうだ。

Sさんの話も聞いてみよう!
と思って無料相談に申し込んだ。

同じ金額で提案してくることは
目に見えていた。

俺がいうセリフは既に決まっている。

「30万円のプランからスタートして
30万円課金してアップグレードすることはできますか?」

答えはOKだった。

よっしゃあ!!!
とりあえずスタートすることはできた!

ちなみに
Sさんは50万円でコンサルまでついていたので
最初に支払うのは30万円、2ヶ月後に20万円となった。

支払いは次の日曜日に
例の新宿のオフィスで行うことになった。

現金30万円をバックに入れて持っていく。

途中の電車でスラれないかな?と不安に思いながら
何度も何度も確認した。

30万円の支払いにビビっていたというよりは
無事に事務所まで持って行けるかな?と不安に思っていた。

契約書にサインして
無事に30万円の受け渡しも完了した。

口座には3万円くらいしか残っていない。
退路は絶った。やるしかない。

SNSアフィリエイト開始

こうしてSさんの元で
SNSアフィリエイトを学ぶことになった。

Twitterを伸ばす作業とブログを作る作業があって
並行して進めていく。

Twitterは集客用で
ブログはアフィリエイト案件を獲得するために書く。

ちなみに
2ヶ月度に残りの20万円の支払いがあったので、
バイトも続けていた。

Twitterの方は
1日30分もあれば作業が完了する。

早朝のセブンイレブンで
カウンターの下にスマホを隠して
ちょこちょこ作業すれば終わるレベルだった

ブログを作る作業は
ちょっと大変だったが
3週間くらいで完成した。

コンサルを受け始めたのが
1月20日だったので
2月中には初期準備が終わった感じだ。

続いて、
アフィリエイト案件を成約させるために
Twitterで興味づけのポストをしていく

集客→興味づけ→成約という流れなのだが
なかなか成約してくれない

3月には収益化できると思っていたのに
31日になっても収益はゼロ。

マジで焦った。
詐欺だったのか?という考えが頭をよぎった。

そして4月になった。
Sさんが電話でアドバイスをしてくれる日だった。

この日初めて
Sさんは自分のアカウントを見せてくれた

それまで会員サイトのコンテンツで学習していたのだが
サイトには書いていないこともやっていた。

「これだ!」と瞬時にわかった。

結論から言うと
グレーなことをしていた。

グレーだけど
これやれば絶対稼げるな。
そんな内容だった。

初収益

翌日から
俺もそのやり方を取り入れた

いけるだろ。という気持ちはあったものの
2ヶ月半収益ゼロだったので、
もしかするとダメかも…という不安も同時にあった

Twitterを投稿して
ドキドキしながら待つ。

30秒に1回くらい
管理画面を再更新して
成果が上がってこないか待った。

頼む。ついてくれ…

何度目かの再読み込みで
管理画面のデザインが変わった。

ん?

お、
1000円?

きたぁぁぁぁぁ!
成約した!

待望の初収益だった。
身体中が熱くなる感覚があった。
5年分のアドレナリンが一気に放出された気がした。

画面をスマホで撮影し
SさんにLINEする。

「成約しました!
今までありがとうございます!」

すぐに返事が返ってきた。

「おめでとうございます!
この調子でやっていきましょう。」

管理画面に目をやると数分に1件くらい
立て続けにCVデータが上がってくる。

お!また来た。
2000円、4000円、6000円
ひょっとして1万円いくかな?

しばらくすると
売上は11000円に達した。

1000円の案件が11個成約。
嬉しくて管理画面をまた撮影した。

昨日まで1円も稼げなかったのが嘘みたいだ。
その日はテンション上がりすぎて、なかなか寝つけなかった。

Instagramも始める

次の日は心地よい目覚めだった。

もしかして寝ている間に成約してるかなと思って
管理画面にログインする

ワクワクしながら見ると
既に3000円発生していた。

よしよし。
全ては順調だ。

このやり方でイケることがわかったので
次の施策として

・配信する案件を増やす
・集客量を増やす
を実践した。

他のASPにも似たような案件があったので
3~4個引っ張ってきてTwitterで流した。

続いては集客量だ。

Twitterは既に5個運用していたので
これ以上作成することができない。

代わりにインスタを使うことにした。

芸能活動をしていた時に
インスタのフォロワーを7000人まで伸ばした経験があったので
使い方には慣れていた。

すぐにアカウントを4個作成した。
集客の要領はTwitterと同じだ。

この段階になると、
Sさんが教えてくれたノウハウで効率が悪いところを見つけていたので
自分で改良しながら最短最速で収益化に結びつく投稿をした
(一昨日まで収益ゼロだったのに成長が早いものだ)

結局、2日目は
25000円の売上になった。

その日作成したインスタ経由でも
早速成約していた。

Sさんに報告すると
「ペース早いですねw」
とお褒めの言葉をいただく。

しばらくは
Twitter5個
インスタ4個
で運用を続けることになった

インスタはライバルがマジでいなかった。

アカウントを作成するときに確認したのだが
同業者は5アカくらいしか見当たらない。

俺のために市場があると思った。

3日目以降も2〜3万円ペースで売上が出ていたが
Sさんから
「少しセーブした方が良いですね!
あまり1つのASPで稼ぎすぎない方が良いです!」
と言われてペースを落とすことにした

かと思えば

「同じASP2個用意すれば良くね?」
とひらめいた。

母親に口座を借りて
ASP登録して成約を分散させることにした。

このやり方は今も使っているが
かなりおすすめだ。

結局、
4月は30万円ほどの売上になった。

Sさんが教えている生徒さんの中で
過去最高らしい。

やったぜ。

しかも作業時間も
1日1時間程度だった。

よく
起業初期は10時間作業しました!
的なエピソードがあるが
俺の場合は効率的にできていた。

後述するが
Sさんから学んだノウハウを自分なりに改良していたからだ。

当時はコロナで日本中が大騒ぎしていた時期だ。

俺は大学3年になっていたが
授業は全部リモートだった。

やることも特になかったので
俺のエネルギーは
アフィリエイトに注がれることになった。

仮にコロナが流行っていなかったら
起業家として独立することはなかったと思う。

大学で同級生と顔を合わせれば
大学院進学や就職の話になるからだ。
そうなうと、どうしてもそっちに引っ張られてしまう。

4月に初収益を達成したが、
5月は40万円、6月は60万円、7月も60万円と
順調に伸びていった。

この頃になると
ライバルが多いTwitterよりも
ライバルがいないインスタを重点的に運用するようになった

BIGLOBEの格安simを契約して
インスタのアカウントは13個に増えた。

1端末だと管理しきれないので
3台の端末に5、5、3個と入れて管理していた。

バイトを辞める

アフィリエイトで稼げるようになってからも
バイトは続けていた。

さすがに山崎パンの夜勤はやめたが(というかバックれた)
セブンイレブンと塾講師は続けていた

アフィリ報酬の支払いは
翌月末や翌々月15日の会社が多かったので

稼げるようになっても
キャッシュフローが安定するまで時間がかかるからだ。

全てのバイトをやめたのは7月末だった。
1月20日にコンサルを買ったので
半年で辞めることができた。

最後の出勤はセブンイレブンだった。
バイトから帰ってきて
仕事着をゴミ袋にぶち込んだ瞬間は
今でも忘れられない。

労働という背負っていた荷物を下ろすことができて
カラダが軽くなると同時に

これからは
自分の力で飯を食っていかねばならないと
少しだけ不安になった。

自由を謳歌

バイトをしなくていい
コロナで大学もない
作業は1日1時間程度

ビジネスを開始してから半年で↑の状態になり
俺は自由を満喫していた。

当時付き合っていた26歳の彼女と1日中遊んだり
ライブ配信をして細々と芸能活動もやったりしていた(まだ芸能への未練があった)

この時期は日給2万円を継続して稼いでいたと思う。

勉強会。意外と周り稼げていなかった

10月にSさんから
「勉強会(セミナー)やるから、ガリンペイロもおいでよ!」
と言われた。

Sさんは他の経営者の方と
グループ会社を展開していて
他の人が取ったコンサル生も来るらしい。

だいたい70人くらい来るとのこと。

俺はテンションが上がった。

同じ手法でアフィリエイトやっている人が周りにおらず
仲間見つかればいいな!とちょうど感じていた頃だった。

俺がコンサルを買ったのが
コロナが始まった直後だったので
蔓延防止のため、勉強会はしばらく中止されていて
それが今月から再開されるとのこと。

ウキウキしながら
新宿に向かう。

部屋に入ると
前の方はほとんど埋まっていて
後ろにこっそり座った。

俺みたいなガキは意外と少なく
30代〜50代くらいの人が多かった。

近くの人と7~8人でグループを作って
そこに講師も混じって
集団質問会が始まった。

いろいろな質問が出てきた。

しかし、
俺は講師以上にそれらの質問に完璧に答えられた。

あれれ。
みんなこんな感じなのか。

もしかして
意外と稼げてない。。。?

いろいろと話を聞くと
勉強会に来ていた人のほとんどは
収益化できていない
稼げていても月10万円以下だった。

そして講師の人も
プレイヤーとして活動していたのはだいぶ前で
最新の案件やSNS事情を理解できていなかった。

ちなみに勉強会で俺より稼いでいたのは
1人だけだった。
(その人は月100万円を超えていた)

なんかあんまり
勉強にならなかったな。と思い
会場を後にした。

月300万円達成

11月。

提携していたASPでVIPアフィリエイターとなり
報酬単価が3倍になった。

このおかげで
月収300万円を達成した。

日給18万円行く日もあって
脳汁垂れ流しながら作業をしていた。

そして俺は
その成長記録をTwitterで発信していた。

Sさんから
「コンテンツ販売したら稼げるよ!」と言われ、アカウントを作って
アフィリエイトの発信を続けていた感じだ。

連日、日給15万円や16万円を連発する俺をみて
1人の人物がDMを送ってきた。

この出会いが
俺の運命を大きく変えることになる。

その人物をRとしよう。

Rは俺と同じ手法でアフィリエイトに取り組んでいたが
当時は作業をサボっていてあまり稼げていなかった。

年は俺より1個上で
中学を卒業してから現場でずっと働いていた。

独立を目指して
俺と同じコンサルを受けていた。

「どこの案件使っているんですか?」
「どんな集客してるんですか?」
と聞いてくる。

めんどうだな。と思って
2、3度シカトした。

それでも収益報告を俺が上げるたびに
DMが来る。

しつこい。

とうとうDMを返した。

細かい内容は覚えていないが
軽くノウハウを教えてあげた。

で、しばらくやりとりが続いて
12月の勉強会で会うことになった。

クローズドASP攻略し月収100万円安定する

勉強会に現れたのは
銀髪の青年だった。

いかにも現場にいそう。
という風貌だ。

俺の生きてきた人生では
あまり出会ったことがないタイプだった。

それでも仲良くなって
LINEを交換した。

今でもめちゃくちゃ仲が良いが
なぜここまで打ち解けたのか不思議である。

だが12月になると
先月荒稼ぎしたASPの案件が過疎ってて
またもや日給2~3万円ペースに。

やっぱり月100万円は厳しいなぁ
と頭を抱える。

瞬間風速で越えられても
安定させるとなるとうまくいかなそうだ。

そして12月下旬。
クリスマスを迎えようとしたタイミングだった。

Rとほぼ同時に
クローズドASP①の審査に通った。

アフィリエイトを始めてから
3〜4回申請していたが
毎回審査に落ちていたASPだった。

俺たちの界隈では
「ASP①と提携したら勝ちだよなぁ…」
とみんなが羨ましがるほど高単価案件があった。

管理画面を見ると
今まで使っていた案件の
2~3倍の単価が出ている。

同じ集客量で
2~3倍の売上が出るということだ。

早速使い始めると
瞬く間に日給5~6万円になった。

年が変わろうとしていた頃
最後の最後で
クローズドASPに合格し
月収100万円を越えた。

11月はたまたま300万円稼げてしまったけど
今回の100万円は質が違うと感じた。

広告集客で月収300万→500万円と上昇

翌月。
年が明けた。
2021年の始まりだ。

クローズドASP①の審査通過方法を掴んだ俺は
母親名義で2個目のアカウントを用意する。

審査に出したサイトは
半日で完成させた。

今はめちゃくちゃチャンスだ
というのが直感でわかっていた。

この瞬間を逃せば
収益性が落ちる。

駆け抜けるしかない。
寝食を忘れて作業した。

そして、1月中旬。

RがInstagram広告(FB広告)を
教えてくれた。

どうやら、元々集客していたTwitterアカウントが凍結されて
インスタを始めたが
ゼロから伸ばすのが大変だから広告を使うという。

この広告が
とんでもなかった。

試しに500円予算を入れてみると
公式LINEのリストが100人増えた。

当時は
インスタ集客→公式LINEにリストためる→配信
という流れで見込み客を管理していた。

1リスト5円!?
まじか。

おそるおそる予算を2000円に上げると
その日だけでリストが300人くらい増えた。

その300人に対して
公式LINEでアフィリエイト案件を流した。

すると、
管理画面を更新するたびに
新しいCVが上がってくる。

1時間ちょっとで
売上20万円を越えてしまった。

おいおい。まじか。

今日、2000円使っただけで
25万円くらい稼げてしまったんだけど。

しかも、これまでのオーガニックと違って
フォロー作業とか一切してないぞ。

もう脳汁ドバドバである。

ステージが変わった気がした。

Rもその日は
37万円くらい稼げていて
広告の凄まじさを2人で痛感した。

そこからは広告厨である。

いろいろなクリエイティブ(画像素材、動画素材)を作成して
検証を重ねた。

ASPから「獲得しすぎです」と言われたので
程よい獲得ペースで収益を作っていった。

1月は月収300万円になった。

広告は配信を継続すると
クリエイティブが腐って
反応が悪くなる。

最初の1リスト5円時代は
1ヶ月もしないうちに終わってしまったが
訴求を変えつつ、利益を作っていった。

2月は広告予算を増額し
月収500万円になった。

3月も500万円くらい稼いだ。

いつの間にか
銀行口座には1000万円貯まっていた。

もう1つの事業

アフィリエイトで月50万円くらい稼げるようになってから
俺はもう1つのビジネスに取り組んでいた。

先述したコンテンツ販売だ。

「成果の出たノウハウを販売することで
お金を稼ぐことができますよ。

高単価だし仕組み化もできるので
おすすめです」
とSさんに言われて始めた感じだ。

最初はTwitterでボチボチ集客をしていた。
Rとの出会いもそのアカウントだった。

ある程度キャッシュができてからは
SNSはやめて広告で集客し始めた。

リストどりのLPを作って
リスティング広告を回していた。

当時のCPAは1000円前後。
(かなり安い)

コンテンツの単価は30万円〜80万円だったので
広告を月15~20万円回すと売上が300万円くらい出た。
ROASでいうと、1000%overが当たり前だった。
俺の周りの状況はこんな感じ。

Sさんもコンテンツ販売で毎月300万円稼いでいたので
当然俺もそこを目指していくわけだ。

「リストとれて面談決まったら
僕が代わりにクロージングするんで!」
Sさんはそういった。

最初は売り方を実演してくれるらしい。

これはABCという有名な営業手法だ。
マルチ商法でよく使われている。

A→Authority(成功者)
B→Bridge(仲介者)
C→Customer(顧客)
となる。

SさんがAで、俺がBだ。
BがいることでAの権威性が上がり、営業が決まりやすいとされている。

Sさんは対面セールスをメインで行なっていた。
オフィスまで顧客を呼んで商談をする。

成約率も60%以上と高かった。
周りからも「Sはセールスがうまい」と言われていた。

80万円や100万円の商品を
月に3~4本契約すれば
月収300万円を越える。

Sさんは週に2件くらい営業をして
あとはゲームして遊んでいるらしかった。

アフィリエイトだけだと収入源が1つになってしまう。
2つ目の収入源としてコンテンツ販売に魅力を感じた。

寒空の下、現金16万円手渡される

最初のABCは今でも覚えている。

俺が集客したリストで面談することが決まった。

Sさんが会議室で待機しているので
エントランスでお客さんと待ち合わせて部屋まで連れていく。

エントランスに降りる前にSさんが一言。

「今日、金策なるかもだから
そうなったら任せるわ!」

「ん?キンサク?」

「あ、わかりました…」

よくわからないままABCが始まった。

※お客さんをCさんと呼ぶことにする。

Cさんは20代後半の会社員だった。
最終的には独立を目指して、副業で稼いでいきたいらしい。

Cさんを会議室に誘導してからは
Sさんがメインで喋る。

俺は横に座って
うんうんと頷いていた。

いろいろな具体例を出しながら
Sさんがわかりやすく説明・教育していく。

普段ゲームしかやってないくせに
よくこんなにもベラベラと喋れるもんだな。と舌を巻いた。

ABC開始から1時間半が経った。

いよいよ、商品提案の頃合いだ。

ここでSさんは80万円と120万円の商品を提案した。

普段は30万、50万、80万円と聞いていたので
思わず金額にびっくりした。

おいおい。本当に買うのか?
最低80は厳しくね?
と思っていたらCさんが口を開いた。

「やりたいです」と。

うおおおおお。マジか。
こんなに簡単に終わるのかよ。

目の前で契約が決まる瞬間を見せられて興奮した。

続いて、支払いの話に移る。

ヒアリングの段階では
貯金はほとんどないと言っていた。

やりたくても80万も払えないんじゃね?
と俺は不安に思った。

Sさんが金銭状況について丁寧に質問していく。
クレカ枠や借金歴などだ。

結果として
「そうしましたら借入をして
スタートするのがいいですね!」
と話がまとまった。

2社から50万円ずつ借りることになった。

新宿駅南口を出てすぐのところに
アコムやレイクが密集している場所がある。

俺はCさんとタクシーに乗って
そこに向かった。

道中、
「キンサクって金策のことだったのか」と気づいた。

SさんからLINEがきた。
「途中で飛ばれないように、外で待っててね!」と。

まるで借金とりになったかのようだ。

アコムの自動契約機までCさんを連れていき
俺は外で待機する。

30分くらい待っていると
50万円借りれたとのこと。

次はプロミスだ。
同じ手続きをしたが、プロミスは審査に通らなかった。

これ、雲行き怪しいんじゃね?
と思った。

既に外に出てから1時間が経過していた。

3つ目はレイクに行った。

11月の終わりで外は肌寒い。

頼む。審査おりてくれ。
と祈りつつ待った。

レイクは手続きが長かった。

もう帰りたいと切実に思った。
薄着で着ていたので寒すぎる。

カフェ入りたいけど
飛ばれたら困るから建物の外で待機である。

ちょくちょく契約機の近くまで行って
手続き進めているかチェックする。

40分くらいして
Cさんが出てきた。

どうやら50万円ほど借りられたようだ。

ホッとした。

帰り道のセブンイレブンで
カードを使ってお金を引き出す。

俺はCさんにお茶を買ってあげた。

そして、オフィスに戻る。

Sさんと合流し
80万円の確認をしてもらう。

その後はCさんに軽くガイダンスをして
お開きとなった。

営業がスタートしてから
4時間弱経過していた。

シンプルに疲れた。

営業が終わると
Sさんと一緒に振り返りを行った。

「今日の人は独身で仕事もちゃんとやっていたから
サラ金で借りられると睨んでいた。

だから、最低80万円にして
2択で提示したんだよ」

「あの人、話聞いてる時
姿勢が前のめりになってたよね。

ああなると決まるんだよ!」

アイコスをふかしながら
新宿駅までの10分
Sさんはいろいろ教えてくれた。

で、別れ際に
封筒を手渡された。

「今日の人は、ガリンペイロくんのリストだから
20%ね。16万円!」

「もし自分でセールスして決めたら
30%、40%、50%とあげてくから!
これから少しずつ勉強していこう。

この16万円は有益なことに使おう。
風俗とか言っちゃダメだよw」

…マジか。
一撃で16万円も貰えた。

しかも現金だから非課税だよな…

コンテンツ販売ってすごいな。
とその時思った。

結局その16万円は
Google広告に使った。

初陣

自分で決めたら
%が上がるということで
営業のやる気が出てきた。

「次は自分でやるっす!」
とSさんに伝えた。

Sさんがとってくれた初契約から2週間後
自分で営業する日がやってきた。

緊張しながら
新宿の事務所に向かう。

今日、メインで喋るのは俺だ。
Sさんも同席して、困ったら援助してくれるという。
水飲む動作したら助けてくれるらしい。

今回は契約取ったら30%だ。
やる気が湧いてきた。

お客さんは40代半ばだった。
年齢は自分の2倍以上だ。

一応、昨夜どんなことを喋るか
シュミレーションしてきたので
いけるかも!と楽観的に捉えていた。

が、いざ
お客さんと対面してみると
言葉が出てこない。

頭が真っ白だ。
やばい。

けど喋らないといけない。

アフィリエイトのやり方やノウハウには自信があったので
ホワイトボードを使って
こうやってマネタイズするんですよ〜と話していく

お客さんは
「あぁ、そうなんですね〜」って感じで
あまり引き合いがない。

Sさんがやってた時と全然違う。
何かがおかしい。

もう終わりにしたかった。
早くこの場を終わらせたい。
そんな気持ちになる。

ただ、営業前にSさんと約束していた。

「うまく喋れなくてもいいから
ちゃんと最後の金額提案までするんだよ!」と。

だから、ここでやめるわけにはいかない。

両脇にじめっとした汗の感触がある。

なんとか話をつなぎ
金額提案にたどりついた。

ドキドキしながら
30万、60万、80万の3パターンがあります。
と伝えた。

次に「やってみたいと思いますか?」
と質問する。

すると一蹴。

「いや、やりません。」

ちなみに、これ系の質問をすると
「いやーやりたいんですけど、先立つものがなくて…」
という返答が多いのだが、それ以前の問題のようだ。

Sさんは見込みがないと判断し
営業を終わらせる方向で話を進めていく。

こうして、俺の初陣は
散々な結果となった。

お客さんをオフィスの外に送り出して
Sさんとの振り返りタイムである。

「営業がうまい人ってどんな人だと思う?」
会議室に戻るなり唐突に聞いてきた。

すげーアバウトな質問だなと思ったが
何か答えないといけない

「コミュ力がある人ですかね!」

・・・

「まあそれもあるけど、
例え話がうまい人だよ」

「え…」

「お客さんは直接指摘されたらイラッとくるでしょ。
間接的に伝えることができれば営業上手くなるよ。

例え話を使って
教育をかけたり、欲求をあぶり出していく感じかな!」

「前、俺が預金課税の話とかしたけど
それもお客さんを恐怖させるための例え話

本を読んだり、YouTube見たりして1個ずつ知識を増やしていけば
話せることも増えるよ。」

「・・・ありがとうございます。」

「営業うまいとモテるようにもなるよ。
Yさん(グループ会社の元締め)もめちゃくちゃモテるし!」

「そうなんですね。もっと知識増やして契約とれるようにします!」

「おう、頑張ろう!」

こうして振り返りが終わった。

60回断られ続けて

初陣の後も
広告でリスト取って→面談
を繰り返した。

千葉に住んでいたので
対面で営業することは難しかったので
平日はzoom、土日は対面で営業をした。

Sさんが加わって3人でやってくれたのは
最初の2~3回で

それ以降は営業が終わった後に
音声を聞いてもらっていた。

Sさん相手にロープレをすることもあった。
(これはものすごく緊張した)

しかし、決まらない。
契約が取れない。

60回くらいは営業したけど
俺は1件も契約を取ることができなかった。

3~4ヶ月で60件やったので、
月のアポ数で言うと15件くらい。

焦った。

同様に営業をしている人は周りにたくさんいたが
「決まりました」「着金しました」の報告が毎日のように流れてくる。

俺ってセンスないのかな…

昔から人と話すことは苦手だったし
この仕事向いていないのかな。

こう思う瞬間が毎日あった。

ある日のSさんとの振り返り。

「ガリンペイロくんさ。
30万円や50万円の商品を高いと思ってない?」

「…そうですね。高い…ですよね」

「だから売れないんだよ」

「えっ…」

「俺は50万円や80万円で人生変わるなら
めちゃくちゃ安いと思ってるよ!

ガリンペイロくんも
アフィリエイトで月100万円以上稼げるようになって
生活や価値観が良い方向に変わったでしょ?」

「確かに。そうかもですね…」

「だよね!
しかも実際に自分も50万円払ってるじゃん。」

「自分が払った金額なら
契約取れそうじゃない?」

「そうですね。
自分が50万円払ったの忘れていました!

金額ばかりに気を取られて
その先にある良い未来をお客さんに伝えるのを忘れていた気がします」

この日を境に
営業の感触が良くなった。

もしくは、60回以上回数をこなしていたので
覚醒したのかもしれない。

スポーツでも勉強でも
ある日突然「そういうことだったのか!」となる瞬間は多々ある。

壊れなかった壁を
60回叩き続けて
打ち破ったイメージだ。

30万円や10万円の契約は
ポツポツ取れるようになってきた。

そして営業未経験から6ヶ月後。
zoom営業のみで月収100万円を達成した。

翌月、グループで1番の売上に

翌月、俺はアクセルを踏んだ。
大学4年の4月のことだ。

Google広告出稿→公式LINE→zoom営業
というフローで進んでいくのだが
一番前の出稿量を増やした。

一番後ろの営業は
これまでの半年でSさんとみっちり演習してきた。

さばくアポの数が増えれば
当然売上は伸びるはずだ。

当時、グループ会社で一緒に活動していた営業マンは
デイリー5000~6000円しか予算をかけていなかった。
それで、のんびりアポして200~300万円くらい売り上げていた。

だから、俺はデイリー1万円にした。

このおかげで
リストがバンバン入ってくるようになった。

当時は大学のラボもめちゃくちゃ忙しかった。

そもそも理系なので文系とは忙しさが違う

スパルタ研究室を選んでしまった
ので

月〜金曜日は9時半〜19時半までラボにいて
土曜日は9時半〜14時まで研究報告会
休みは日曜のみ

という過酷スケジュールだった。

加えて土曜の研究報告が曲者で
実験が甘いと
容赦なく教授から詰められる。

だから金曜の夜は
家に帰るのが22時くらいだった。
(1時や2時まで実験や分析をしていることもあった)

まず、上記の大学スケジュールがあった上で
アフィリエイトの作業とzoom営業が入ってくるわけだ。

当時の1日はこうだ。

9:20 起床
→飯も食わず、顔も洗わずチャリで通学。
「行きたくないよぉぉ」と大声で叫びながら漕いでいた。

9:30 ラボ到着

9:30~11:00 実験(眠い)
→隙間時間で公式LINEに来ている問い合わせに返答する。
(アポの日程決めがメイン)

11:00~12:00 昼食

12:00~19:00 実験(きつい)
→17時くらいからアフィリエイトの広告を配信する。
→公式LINEの返答もする
→zoom営業の前に15~20分ほどの電話をしていたので、
ラボを抜け出し野外で電話。

19:30 帰宅、アフィリの成果確認
→17時に仕込んだ広告からの成果を確認する。

20:00〜22:00 zoom営業
→平日はみっちり時間を取れるのがここしかない。

だいたいこんな感じだった。

もう5年も前

当時は忙しすぎた
のであまりよく覚えていないのが実状。

とにかく1日1日を
こなすのが必死だった。

ただ、よくある睡眠時間4時間で〜
とかはしなかった。

ちゃんと8時間は寝ていたと思うし
深夜まで働いた日は、
翌日ラボから抜け出して昼寝もしていた。

睡眠を削るのだけは良くないと思う。

ちなみに日曜日はアポし放題なので
1日8アポくらい入れていた。

電話4件+zoom4件みたいな感じ。

電話して見込みある人を
zoomでガッツリ営業する流れだ。

日曜は朝9時〜22時くらいまで
ずっと営業していた。
隙間時間の1時間でアフィリの作業もしていた感じだ。

話を戻すが
広告の日予算を1万円にしたおかげで
大量のアポができて

その月の営業売上は660万円になった。

アフィリの方も400万円強稼げていたので
合算して月商1000万円を超えた。

だが、嬉しいという感情はなかった。

忙しすぎて
余韻に浸る暇もなかったのだ。

また660万円という売上は
その月の同じグループの営業マンの中でトップだったらしい。

数ヶ月前まで
契約が取れなかった俺が覚醒した瞬間だった。

2つの勝因

1年半ほど前まで
山崎パンの工場勤務をしていた俺がなぜ
月商1000万円を超えることができたのか?

2つの勝因を話したい。

1つ目は広告予算を踏んだことだ。

Sさん含め、俺の周りにいた人は
ゆるくアポできる数のリストしかとっていなかった。

ゆるくやっていたのでは
そこそこの結果しか出せない。

俺は1ヶ月で風向きを変えるために
追い込んだ。

広告の予算を増やすことに
かなり抵抗はあった。

けど、
ダメだったら最悪停止できるし
(当たり前)

アフィリで毎月300万円くらい儲かっているから
月30万円くらいなんとかなるだろ。
と思って予算を踏んだ。

俺の周りの営業マンは
SNSアフィリでの収入がなかったので
アフィリエイトが味方してくれた感じだ。

2つ目はzoom営業を極めたこと。

SさんとオフィスでABCをした話を書いたが
当時俺の周りはみんなオフラインで営業をしていた。

彼らの言い分としては

オフラインの方が、実際に来るという手間が発生するので見込みが高い

そんな見込みがある顧客に絞って営業するんだ

そうすれば、時間の余裕もできる

だから、とにかくオフィスに呼べ。
というロジックだった。
(ちなみに彼らは関東地方のみに絞って広告を出していた)

会食やオフィスでそういう話を聞きながら
「なんか違くねーか?」
と俺は感じていた。

もちろん、俺が千葉住みで
わざわざ東京まで出て行って営業するのが面倒だ。
と思っていた背景もある。

しかし
オフラインだと絶対に遠方の人を取りこぼすことになる。
と感じた。

また広告の範囲を
関東→全国に広げることで
CPAを安くすることができる。

以上のことから
zoomだけで売れるようになれば
奴らに勝てると確信した。

そこで俺は
・ブランド化
・ナーチャリング
の2つを実践した。

1つ目のブランド化から。

実は(よくある話ではあるが)
競合はアフィリエイトのノウハウを売っているのに
自分はプレイヤーとして稼いでいない連中ばかりだった。

もはや詐欺師である。

だから、そういった人を仮想敵にして発信をした。

正直、同じノウハウを売っている人の中では
一番稼いでいたので自信を持ってセールスできた。

いつの間にか
「アフィリエイトを学ぶならガリンペイロさん」
というブランドができていった。

2つ目はナーチャリングだ。

日本語に訳すと
「顧客育成」となる。

セールスをしても
契約に至らないことは多い。

そこで、成約しなかった人を
無料のオンラインサロンに誘導した。
(自分が作ったサロン)

そのオンラインサロンでは
・無料コンテンツの提供
・質問回答
・既にアフィリエイトに取り組んでいる人の成果報告
などを配信した。

そうすることで
「ガリンペイロさんの環境は本物だ」
「無料でここまで教えてくれるのか」
と思ってもらうことができる。

自分以外の受講生もいるので
信頼性もある。

このサロンのおかげで
「やっぱりコンサル買いたいです」
と再連絡が来ることも多かった。

お客さんが育成されて
ガリンペイロへの愛着が深まっているのだ。

他の営業マンは
商談で売れなかったら終わり。
という感じでやっていたので
取りこぼしを少なくすることができた。

これが俺が
グループでトップの営業数字を出せた秘密だ。

この月、
zoom営業のみで売上1位になってしまったので

翌月からみんな
広告の予算を増額し、zoom営業をする人が多くなった。

自分のやり方がマネされることは
気持ちよかった。

実は親に泣かれていた

毎月着金300万円の試練と会社設立へ

当時俺がいた環境は
グループ経営で
親会社の下に子会社がいくつもあった。

親会社がコンテンツを作成し
子会社がコンテンツを販売(営業)する

そして、ロイヤリティを親会社に支払う。

で、毎月300万円前後売れるようになった営業マンは
子会社の社長としてグループ会社に参画することができる。

という仕組みだった。

この間まで月100万円前後しか売れていなかった俺だが
いきなり600万円売ったことで
会社設立のオファーがきた。

社長になれるんだ!
と俺は喜んだ。

というのも
今の自分の状態は
個人事業主。

自分で仕事やってます!
と親や教授には伝えていたが
会社名も出せないことに不便を感じていた。

アフィリエイターから社長になる。
これだけでバカ喜びしたのだ。

今考えれば
会社の設立なんて30万円くらい出せば誰でもできるのだが
(合同会社ならもっと安い)
21歳の俺はこのように青かったのだ。

提示された会社設立の条件は
3ヶ月連続、着金額300万円以上。
だった。

まあまあきついなと感じた。
グループ会社の営業マンでも
月300万円以上安定している人は少なかった。

正直、今回の600万円overは
自分でも調子がよすぎたと感じていたので
次の月のことを考えると不安である。

でも、やるしかない。

そうして、翌月がスタートした。

蓋を開けてみると
着金額は180万円ほどだった。

今となっては
なぜ売上が落ち込んだのか思い出せないが
数字としてはダメだ。

あー起業への挑戦終わったな。
と思っていたのだが

親会社の代表から
もう1ヶ月見ると連絡が来た。

まだチャンスがあると感じた。

660万円、180万円ときて
最後の3ヶ月目だ。

ここで決めないと行けない。

結論から話すと
3ヶ月目は370万円の着金だった。

3ヶ月連続300万円以上ではなかったが
1ヶ月目の660万円が評価して
株式会社を設立する流れになった。

設立が決まったときは
「これで俺も社長になれる」
と嬉しい気持ちになった。

会社設立の細かい手続きは
税理士が全部やってくれた。

気づいたら
俺の会社ができて
税理士からハンコを受け取っていた。

2021年8月のことだ。

1ヶ月でグループ会社脱退

晴れて社長になったものの
俺には悩みがあった。

zoom営業をやりたくない
だ。

約1年前に営業を始めて
今まで200件以上アポをしてきた。

その中で気づいたことがあった。

・毎回面談するのしんどい
・マインドがクソな人も多く疲れる
この2つだ。

1つ目の方から説明する。

売上を作るには
毎回1対1で話す必要がある。

契約が決まれば時給数十万円だが
決まらないことの方が多い。

決まるかどうかわからない客相手に
本気出すのだるくね?と感じたのだ。

次は2つ目。

副業やネットビジネスで稼ぎたいです。
って人の中にはマインドが終わっている人も多い。

SNSだと教育されているので
そうでもないのだが
広告経由で集めたリストは総じてマインドが低い。

顧客に対して教育コンテンツを送っていないのも原因だったが
それを踏まえても、会話したくないレベルの見込み客が90%以上だった。

法人設立してから1ヶ月目で
この悩みが頂点に達した。

「やり方を変えるしかない」

親会社の代表に
「グループを抜けます」
と伝えた。

止められることはなかった。

その3年後に再会するのだが
「ガリンペイロくんほど行動力のある人は、
いつか抜けると思っていたよ。」
と言われた。

2021年夏、マーケティングを勉強する

「zoom営業せずに
高単価コンテンツを販売したい」

これが当時の目標だった。

知り合いに
「電話営業なしでコンテンツ販売やってる人
知りませんか?」
と聞いたところ1人の男性を紹介された。

Twitterを運用している方で
通話なしで毎月1000万円ほど販売していた。

しかも、22歳と1個上だ。

この人はホンモノかもしれない。
と直感的に感じた。

ここでは、Eさんとする。

知り合いにEさんのTwitterアカウントを教えられてから
5分後にはコンサルの申し込みをしていた。

コンサルは1年330万円だった。

金額だけ見たら高い。

当時の俺も330万円かぁ。って思ったけど
成長するために割り切った。

で、翌日コンサル費を支払って
次の日に会うことになった。

場所は六本木のミッドタウン。
今まで新宿を拠点に活動していたので、
港区は心躍った。
この日を境に、六本木によく行くようになる。

中華料理を食べながら
zoom営業なしで高単価商材を売るための方法をレクチャーしてくれた。

当時は通話しないとコンテンツは売れないと思っていたので
目から鱗の内容だった。

いわゆる「ローンチ」の手順を教えてもらった感じだ。

「とりあえず、今月中に1回ローンチ打ってみましょう!」
とアドバイスされて

9月、人生初めてのローンチを打つことになった。

初ローンチ 

SNSアフィリエイトでの実績があったので
そのノウハウを販売することにした。

値段は98000円。

上位プランとして100万円のコンサルも用意した。

あとはワンタイムオファー
(メイン商品を購入した直後に画面が遷移してアップセルする手法)
も取り入れて販売導線を組んでいった。

広告で集めたリストがいたので
その人たちに向けて販促した。

コンテンツ作成をするのは初めてだったので
ここが一番大変だった。

大学の空き教室にこもって
何度か徹夜した記憶がある。

2週間ほどで準備完了して
いよいよローンチスタートだ。

プレゼント企画の告知をして

興味ある人に30分程度の動画を見てもらう
(この動画内で教育と興味づけ)

1週間ほどの間で
もう2〜3本動画を見てもらう

販売時間の2時間前にウェビナーして熱量を上げる

3日間の限定販売スタート

という流れで実施した。

ウェビナーは個人的に心躍った。
50人程度参加したのだが、
俺1人対50人で1回で処理できる。

今までだったら、
1〜2時間のzoomを50回しないといけないところだが
50倍も効率化できるのは画期的だと思った。

結果的に売上は380万円ほどだった。

コンサルやワンタイムオファー商品も売れて
めちゃくちゃに手応えを感じた。

Eさんに払ったコンサル費用を
初月でペイしたことになる。

大学の卒業が近づいてきた

初ローンチを9月に実施して以降
毎月何かしらの新商品を出していた。

売上で言うと、
毎月200~300万円は出ていたと思う。

それに合算して
SNSアフィリエイト(この頃になると完全にアドアフィリエイトになっていた)
の収入もあったので

大学4年の後半は
毎月500~600万円を稼いでいた。

研究室は相変わらず大変だったが
2月末の卒業研究発表会を終えれば自由になるので
その日を待ち望みながら毎日を過ごしていた。

研究室に入った頃は
俺の言動に嫌味を言っていた教授も
卒業が近づいてくると妙に優しくなった

卒研の発表会で
俺の出来が悪いことが周りに知られると
自分のゼミの恥になるので
「コイツをなんとか卒業させよう」と方針転換したのだろう。

Eさんが六本木に住んでいたので
港区で飲むことも多くなった。

大学が終わって
タクシーに乗って六本木まで行って
ホテル泊まって帰る。

タク代は片道2万円ちょいとまあまあ高かったが
人との出会いに課金や。と思って行っていた。
(実際、良い出会いもたくさんあった)

当時はコロナ禍でホテルが安く
1泊6000円〜9000円くらいで宿泊できた。

六本木のカンデオホテルは
露天風呂があるので
よく泊まっていたと記憶している。

こんな日が次第に増えていった。

そして六本木は
街を歩くと
明らかに美女率が高い

なので、東京に行く日は
毎回楽しみだった。

大学を卒業したら
絶対港区に住もう。
そう思った。

大学卒業。白金のタワマンに引っ越す

2月18日。
卒研発表会が終わって、
俺はゼミから開放された。

全てのバイトを辞めた瞬間
大学の卒業が確定した瞬間

この2つは
とんでもなく爽快だった。

実は大学4年の夏に
休学しようかと思ったことも一度あった。

教授からは毎日のように嫌味を言われるし
仕事はクソ忙しいし
自分の将来不安だし

この3つが重なって
精神的に疲弊していた時期のことだ。

しかし、一度休学してしまったら
2度と大学に戻ってこられなくなる。
そう直感して歯を食いしばって、半年乗り切ったのだ。

休学や中退も1つの選択肢としてアリだと思うが、
俺の場合はちゃんと卒業してよかったと思う。

これを見ている学生がいれば
よほどの熱量がない限り、
休学や中退は辞めたほうがいいと思う。

卒業が近づいてくると、
港区に家を探し始めた。

偉そうにも
お台場や新橋は港区ではない!
と思っていたので
麻布エリアで物件を探した。

結局、白金の家賃30万円のマンションになった。

千葉のアパートは25平米ほどの1Kだったので
鍵を受け取って初めて部屋に入った時は
興奮して震えた。
(忙しかったので内見せずに契約した)

今となっては
賃料30万円の部屋で大喜びして幸せなやつだなと思う。

それでも、当時の俺にとって
タワマンから眺める景色は格別だった。
今まで頑張って良かったな。と何度も思った。

白金に引っ越した後も
何度か大学に行く必要はあった。

タワマンから大学に通学するというのは
とても気持ちが良かった。

初月で1000万円稼ぐ。新しく作ったアカウントが鬼バズる。

大学を卒業してからGWまでの間
俺は新しいTwitterアカウントの仕込みをしていた。

このコンセプトで発信すれば
絶対に濃いファンを獲得できる。
そんな切り口を見出していた。

Eさんのコンサルを受けたことで
・マーケティング
・ライティング
・ブランディング
の解像度が上がって
人にモノを売るのが得意になっていたのだ。

GWが明けて5月9日。
そのアカウントで初めての商品を出した。

1日で200人以上が購入した。
初商品にしてはかなり良い。

結果的にその商品は累計で800部程度売れたが、
俺の良かった点は、二の矢三の矢を用意していたところだ。

結論から言うと、
5月中に6商品をローンチした。

GWが明けてからなので
3週間で6つ出したことになる。

コンテンツ販売している方からすれば
驚異的なローンチ速度ではないだろうか。

これがよかったのだ。

勢いのある時にバンバン良い商品を出すことで
注目度も上がるしファンも増える。

最初の商品を買って満足した人が
2個目、3個目もどんどん購入していった。

5月後半になると
4日連続で日給100万円超えを達成した。
(船舶免許の講習に行っていて、
その期間中ずっと100万円超えていたのでよく覚えている)

もう脳汁ドバドバである。

稼げるし
どんどんリストは増えるし
これは安泰だなと思った。

こうして、とあるTwitterアカウントで
5月は1000万円以上稼いだ。

6月も7月も
1000万円を超えた。

アフィリエイトの作業は抑えて
情報発信に割く時間を増やした。

8月は大きめのローンチを打ったので
売上は2000万円を超えていた。

当時22歳だったが
ちょっと小銭を稼いだことで
俺はブランド品三昧&遊びまくることになる。

半年で2000万円消える

今となっては恥ずかしい話だが
とあるアカウントがバズって
金周りがよくなった俺は
欲望の全てを解放することになる。

・ブランド服
・高級ホテル
・各種遊び
・夜のお店
全方位に繰り出していった。

情報発信頑張っていたと言っても
1日の作業時間は2時間ほど。

ローンチ前は集中的に作業することもあったけど
基本的に時間があった。

年齢で言うと
新卒の代になるのだが

これまで金を稼いでも
大学が忙しくて使う暇がなかった。
(しかも千葉住みだったので誘惑がない)

だから、22歳の時は
毎日のように遊んでいた。

「遊び」が中心で
たまにPC開いて
コンテンツ作っていた感じ。

・ひと月に3回沖縄行ったり
・週3で山中湖に行ってジェットスキー&BBQしたり
・初対面の女の子と花火大会行って、そのままその子の家に3連泊したり
・朝4時までクラブVIPで馬鹿騒ぎして、9時の便で昨日知り合った女の子と一緒に福岡まで旅行行ったり
こんな感じである。

時間と金があったので
とにかく気の向くまま場面で行動していた。

誘われた遊びには
全てGO。

1泊80万円のホテルに泊まったり
ギャラ飲みで一晩100万円使ったり
80万円の服買ったり

どうせ来月も入金あるからいいっしょ?
という気持ちで過ごしていた。

タイトルにもある通り
半年で2000~3000万円使ったと思う。

成仏と感謝

ここまでやり切ると
さすがに飽きてくる。

俺は再び
ビジネスに集中することになった。

Twitterで情報発信を本格的に始めてから
9ヶ月ほど経っていたが

俺の教材を購入して
実績を出す人が増えていた時期でもあった。

アフィリエイトの教材を4~5本出していたが
半年の間で14人ほど脱サラしていた。
(全員、元は普通の会社員なので
驚異的なことだと思う。)

「ガリンペイロさんのおかげです!」
と感謝されることも次第に増えていった。

一度、オフラインでセミナーをやったこともあったが
50人以上来ていただいた。
みなさん熱量が高すぎて、懇親会は深夜の1時半までやったのを覚えている。

俺が想定していたよりも
お客さんがどんどん稼げるようになってきてて

「あれ、アフィリエイトって
まだこんなにやれるんだ?」
と俺の方が逆に気づかされた。

アフィリエイト 第2章スタート

教え子さんが頑張っている姿を見て
もう一度、本腰入れてアフィリエイトに取り組むことになった。

これが、今のノウハウの原型となっている。

今回は従業員も採用して
チームで取り組むことにした。

立ち上げ期には
9人ほど集まってくれて

毎日、俺の家に朝から晩まで来て作業しまくった。

俺自身も初月は毎日15時間働いていた。
2023年8月のことである。

常軌を逸した作業のおかげで
初月は600万円ほどの売上になった。

2ヶ月目は800万円。
3ヶ月目は1000万円。
4ヶ月目は1400万円。
5ヶ月目は1300万円。

と売上はどんどん増えていった。

利益率もかなり良くて
80%は利益として残った。

稼いだ利益をどんどん次の投資に回していった。

メインASP倒産する+規約変更

だが、2024年1月2日。
惨劇が起こる。

毎月1000万円以上入金があったASPが倒産してしまった。

正月だったので、のんびり過ごしていたが
寝耳に水の知らせだった。

「あ、終わったな」
と思った。

従業員たくさんいるのにこれからどうしよう。
情報発信ほぼ辞めてしまったのに収入源ないやん。

いろいろな感情が渦巻く。

荷物まとめて実家帰ろかな。とも思った。
もういろいろ不安すぎて考えないようにしても頭から離れない。

それに加えて
今まで使えていた配信手法が年末から使えなくなって
集客にも困りかけていた。

案件もないし
集客もできない

アフィリエイトをしている身からすれば
これ以上に最悪なことはない。

こうして、毎月900万円ほど利益が出ていた状態から
一気に転落してしまった。

2本の命綱

だが、ここで神風が吹く。

2023年の10月と12月に俺はとある仕込みをしていた。

利益が安定してきて
時間的にも余裕が出ていた時期だったので
競合サイトをリサーチしまくっていた。

そんな時に
「これやればいけるんじゃね?」
という新たな手法を見出していた。

俺が「いけるんじゃね?」と直感する時は大抵いける。
起業してからギリギリのヤマを何度も踏んでいるが
なぜか直感が当たるのだ。

1月2日の悲劇から6日後。

温めておいた手法を解禁した。

結果的にこれが大当たりし
2ヶ月後には再び月商1000万円に回復した。

ASPの倒産を機に
退場を余儀なくされた人はたくさんいたが
何とかウチの会社は生き残ることができたのだ。

この2つの仕込みによって
会社の業績はさらに伸びていくことになる。

独自の手法で月1900万円に到達+フランチャイズ始める

5月になると
月商は1900万円くらいになっていた。

デイリーの収益が
80万円を超える日もしばしばあった。

新たに提携したASPが
高単価の案件をたくさん抱えていて
売上が伸びたのだ。

この頃になると、
元々情報交換をしていたアフィリ仲間も

「どうやってるの?」
「ガリンペイロさんの1人勝ちですやん」
「教えてほしい!」
と俺のノウハウに興味を示すようになっていた。

そこで
「代理店って形で
売上の何%からくれるならいいよ!」
ということにして教えてあげることにした。

そんな感じで始まった
フランチャイズ?も
今では9社と提携している。

代理店もみんな稼ぎまくる

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